職場や組織内で
アレもマニュアル、コレもマニュアル、何でもマニュアル・・・
なんて経験はありませんか?
マニュアルを作りすぎて、あのマニュアルはどこにある?みたいなことも日常茶飯事
また、新人や若手の社員も「これはマニュアルないのですか?」
なんて声も。
ここでは暗黙知と形式知という視点で知識を解説し、
マニュアルにおける限界点を考察します。
記事は5分程度で読めるようになっております。
知識とは?
知識は単にデータや情報を集積したものではなく、
「意味のある情報」である。
すなわち、
「私がどう思うか」
「私にとってどういう意味があるのか」
という主観による価値判断(解釈)の過程が重要となります。
現代社会では、インターネットやSNSによって情報が無限に流れています。
その中でも、
「自分自身が良いと思う情報」
「自分自身が知りたい情報」
「自分自身が使いたい情報」などが知識として吸収されます。
すなわち、
「知識=情報+その人の想い(心)」
という事になります。
まず、知識を育んでいくためには、想いや心を大切にする必要があるということです。
暗黙知と形式知
知識を語るうえでよく出てくる言葉が「暗黙知」と「形式知」です
ここでは両者の知識を解説していきます。
暗黙知
暗黙知とは、個人の過去の経験から成り立つ主観的な知識であり、
言語化されていない(できない)知識です。
主観的な知識である暗黙知は、第三者に伝授することが困難であり、
感覚やノウハウ、経験則、勘といった表現がよくなされています。
一つの例えとして、自転車の乗り方を思い浮かべて下さい。
では、自転車の乗り方を乗れない人に説明してみて下さい。
恐らくかなり難しいと思います。少なくても私には全く思い浮かびません・・・。
このように、知識には言語化や可視化できないモノが存在するということです。
形式知
形式知とは、知識や経験をマニュアルなどで他者に共有できる状態にしたものです。
文書や図に示し、「可視化」や「見える化」したものを形式知と呼びます。
また、言語化も立派は形式知です。
例えば、「○○君!△△さんに明日の業務内容を説明しといて!」
なんて事はよくあると思います。
○○君は△△さんに「かくかくしかじか・・・」と業務内容を説明します。
この「かくかくしかじか・・・」も形式知ということです。
したがって、マニュアルや説明書、業務の説明が「形式知」ということです。
この記事を書いているときに思いつきましたが、
学校の授業や塾なども「形式知」の伝達として考えることができますね。
われわれは語れる以上のことを知っている
ハンガリー出身の物理化学者、社会科学者、科学哲学者である、
マイケル・ポランニーは
「われわれは語れる以上のことを知っている」
(We can know more than we can tel)
と述べています。
この言葉を聞いて私はすごく府に落ちました。
私たちは全ての事象を言語や図表で表現できると思い込んでいたのかもしれません。
全てを「形式知」で表現しようと考えること自体が無謀だったのかも・・・。
まとめ
今回は、マニュアルがうまく機能しない理由を考えるため、
「暗黙知」と「形式知」という観点で考察しました。
「暗黙知」が優れていて「形式知」が劣っている という意味ではありません、
ただ、双方の知識の特性や癖、限界点を知ることで、
さらに実りあるマニュアルを作成することができるかもしれません。
また、暗黙知のところにも記載しましたが、
「知識=情報+その人の想い(心)」 です。
文章や図表だらけの無機質なマニュアルから、
色味や温かさを感じるマニュアルにすることにより、
想い(心)を育むこともできるかもしれません。
こういう意識化が良質で良好なマネジメントを促進していくと私は思っています。
最後までお付き合い、ありがとうございましたm(_ _)m
コメント